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“意味があるんだ” [作品]

第三場で未来の世界を見た青年が、第四場の冒頭で最初に発する台詞は、直前のト書きによれば「(じつに力強い声にかわっている)」。
そして、

「いまわかったんだ!
白血病で死ぬにしても、
顔の手術をすることは意味があるんだ。
人間の勇気にそれはつながる
手術のあとすぐ死ぬにしても
未来にかけて意味がある。」

と歌います。

「にんげんの ゆうきに」
“の”のAから“ゆ”に当てられたFisへの音の飛躍のめくるめく高揚、そして、そのFisの音は、青年が全曲中歌う音のなかで(おそらく)2回しか出てこない最も高い音です。

この作品では、語られる内容に即して、概して旋律はことさらに平坦に書かれています。
音が高くなったり低くなったりすることがごく少ないだけに、このような音の跳躍や、高音が与える効果は絶大です。もちろん、作曲家はそのことを計算しつくして用いているのだと推測します。

青年の生命が、このFisを歌う高揚においてメラメラと燃え上がるのがみえるように感じます。
彼はこの瞬間、未来へとつながる自身の生の確たる意味をありありとつかんだのです。
その炎の輝きは、青年自身の生命が幕切れでいずれの運命をたどったとしても、永遠に消えないでしょう。

まったくのうろ覚えなので、実際の表現はかなり違うかもしれませんが、20年近く前に読んだ本のあとがきで、ヴァイオリニストの安永徹氏が次のような趣旨のことを書いていらしたと記憶しています。

1人の人間の人生は有限であっても、そのなかで精神的な価値を創造することが、人間の“霊的水準”を高めることにつながる。その高められた“霊的水準”は個人の生命を超えて引き継がれ、さらには宇宙が滅亡した後にも永遠に残る、というようなことでした。

限りなく切実で残酷でのっぴきならない、そのような生を生きるほかないこの“青年”が、「意味があるんだ!」と力強く歌いあげる、この言葉にこそ、この台本の最も根源的な力を生み出している核があり、また作曲家もそれを音楽によって表現しつくしたのだと感じます。

日付が変わってしまいましたが、2010年3月14日、東京で『ヒロシマのオルフェ』を聴いてくださった方々、歌い、あるいは演奏し、あるいはそのことに関わってくださったすべての方々、それでも書き尽くせない、本番の1時間足らずの1回のために舞台に姿が見えなくてもお力をお貸しくださった数々の方々に、そして、台本と音楽のそれぞれを生み出したかけがえのない作家と作曲家に、心からの敬意と感謝を捧げます。
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『ヒロシマのオルフェ』とブラームスの交響曲第1番 [作品]

『ヒロシマのオルフェ』とバルトークを並べてみたり、ワーグナーを連想してみたり、いずれも好き勝手な滅茶苦茶です。このことについては、オクダイラハジメ氏の未発表論考「大江&芥川~エリオットの影響についての雑感」(2010年3月執筆)のなかに言い尽くされていますので、以下引用します:

「しかし、このような分析は、芥川作品の音楽形式に迫らなければ本質的に“み~つけた”ということと“情緒的意味論”のこじ付けで終わってしまう」

引用以上。

『オルフェ』を練習しながら、バルトークだのワーグナーだのへと思いを交錯させることは、もちろん分析ですらなく、単に「これって似てない?」のレベルにすぎません。そしてなおかつ、そういう雑多な感想や思い込みのやりとりの集積があってこそ、作品と時代はせめぎあい影響しあって生きていけるのだと思います。

あまりに知られた例ですが、ブラームスが約20年かけてやっと世に問うた交響曲第1番。第4楽章の晦渋かつ深遠な序奏を経て、ついにあの主題が提示されるとき、「これって“第九”の4楽章に似てない?」ということはおそらく過去に幾千万の人の脳裏をよぎり、また実際に議論されたり批判されたり解説されたり、ここが好きだの嫌いだの、と酒の肴になったりしてきたことでしょう。

しかし日本人の作品は、そういうふうに人々の生きた心に揉まれて、ありのままの感情や思考と化学反応を起こし合いながら時を経ていく、そのような機会にあまりにも恵まれていないように感じられます。
音楽としてごく自然に人の間の空気のなかに響き、その響きを聴衆と演奏者が共有し、「音としての実体験」が広がっていく、そのなかでこそ(極言すればそのなかでのみ)作品が育っていく…
このことを、ニッポニカの7年間をはじめとして、日本人の作品を折に触れて演奏する機会を得てきたニッポニカの団員たちは、今回の『オルフェ』でいっそう強く実感していると思います。

『オルフェ』の作曲者が最後の数日まで病室で聴いていたのは、ブラームスの交響曲第1番だったという話をきいたことがあります。

あすはいよいよ、本番です。ひとりでも多くの聴き手の方々と、この音楽を共有できることを願って。

オーケストラ・ニッポニカ第17回演奏会
<芥川也寸志管弦楽作品連続演奏会・その3>
2010年3月14日(日) 16:00開演予定
会場・ティアラこうとう
(都営新宿線・東京メトロ半蔵門線「住吉」より歩5分。住吉駅は大手町から半蔵門線11分、新宿から都営新宿線21分。あるいは、総武線「錦糸町」からゆっくり歩いて15分弱。)

指揮:本名徹次
曲目~
芥川也寸志: 音楽と舞踊による映像絵巻「月」 (1981)[舞台初演]―演奏会形式による
芥川也寸志: 歌劇「ヒロシマのオルフェ」*(1967)台本/大江健三郎―演奏会形式による

*青年:黒田博(バリトン) / 若い娘、のちに看護婦:腰越満美(ソプラノ) / 中年の娼婦、実は巫女:加賀ひとみ(メゾソプラノ) / 死の国の運転手、のちに医師:吉田伸昭(テノール) / 合唱:Chor June、すみだ少年少女合唱団、オルフェ合唱団

副指揮:四野見和敏
管弦楽:オーケストラ・ニッポニカ

<当日券あり。残席余裕あります…>
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20世紀のオペラとしての『ヒロシマのオルフェ』(その3) [登場人物]

芥川の『オルフェ』に、とても縁遠そうなワーグナーの『ニーベルングの指環』。
それでも、すべての20世紀のオペラは、19世紀のワーグナーの一連のオペラと無関係ではありえません。
死の娘という登場人物をキーとして着目するとき、ワーグナーの『ワルキューレ』と共通項があるように感じられてくるのが不思議です。

具体的には、死の娘とブリュンヒルデの類似性。

本来の任務:

死の娘~死の国からの使いとして、死すべき若者を見出し、「幾千年も前から決まっていた真実の恋人」として誘惑するのが任務。若者が娘に心からの愛を告白した時点で、死は決定的となり、願いごとをひとつかなえた後で死の国からの迎えがきて若者は銃殺され、死の国の車に乗せられて運ばれる。

ブリュンヒルデ~天上の神々からの使いとして、戦で死すべき運命にある英雄を選びだし、「死の告知」を行う任務。さらに、戦場で命尽きた英雄の亡骸を天馬に乗せて天上に運び、神々の城ワルハラの守備にあたらせる。


自らの任務に対する裏切り:

死の娘~死の国からの使いが来ると知ってなお、未来を信じて銃弾を受ける青年の、死ぬ前の眼を見て、第5場で「わたしたちは、この人を連れてゆかないことにするのよ」と言い放ち、さらに「罰を受けるのは私よ」と自らの責において死の国の掟に背く。

ブリュンヒルデ~栄誉あるワルハラ守備に迎えることを告げても、誘いを断り愛する妻を守り抜こうとする英雄ジークムントの姿に心を打たれ、神々の長・ヴォータンの指示にそむく決意をする。戦の現場でジークムントに加担し、その罪によって自らの神性を奪われ魔の眠りに封じ込まれるという罰を受ける。

ブリュンヒルデは、結局ジークムントを守りきれず、英雄は命を落としますが、妻の胎内の息子を守ることには成功します。
死の娘は、青年を死の国の銃撃から守ることはできませんが、第5場で死の国へ運搬されることを阻み、その結果として青年は第6場で現実世界に一度生還します。そして、幕切れの手術の場面では娘は青年に「いのちに向かってよ!」と叫びます。彼女の最後の歌詞は「死んじゃだめ!」です。
彼の顔の手術が成功するのか、それともその手術は彼を殺すためなのか、それは明らかにならないまま幕が下りるのです。

第7場、いよいよ手術の前。看護婦(実は死の娘)が青年に薔薇をあげる、短い美しい場面で、「子供たちが見舞に来てくれた薔薇をあなたにも」と歌う娘の対旋律で絡むチェロのメロディ。
「ほんの短い間だけ不幸でな」かったときのことが回想されます。
ピットで愛を歌うチェロ、といえばやはり『ワルキューレ』第1幕の主人公二人の出会いの場面が連想されてなりません。

さかのぼって第2場で、青年のあまりにまっすぐな愛の言葉に、娘が「だれでもいいわ、若い女を、それでも裸で抱きしめると、光や風や真昼のすべてが、おとずれるのよ」と返すとき、そのなかには、隠された投げやりな諦めがあります。

しかし、この「だれでも」に当てられた1オクターブの音の跳躍に、初めて彼女の心が仕事(任務)を離れて青年を愛し始めている、その高揚が表われているようにも感じられます。全曲を通しても特に美しく印象深い歌だと思います。

〔この項、完〕
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20世紀のオペラとしての『ヒロシマのオルフェ』(その2) [作品]

『ヒロシマのオルフェ』(1967、作曲:芥川也寸志、台本:大江健三郎)と、『青ひげ公の城』(1911、作曲:バルトーク[1881-1945]、台本:バラージュ[1884-1949])を並べてみよう、と思ったのは:

・『オルフェ』は1幕“7”場。
『青ひげ』も1幕もので、城の中の“7つ”の扉を順に開けていく展開になっている。

・『オルフェ』では、青年が撃たれる4場の後半が音楽的に大きなクライマックス。
『青ひげ』では、5つめの扉(~青ひげの広大な領地)をユディトが開けると、誇らしげな青ひげが高らかに歌い、管弦楽が最高潮に達する。
作品の中の、ヤマ場を置くバランス、オーケストラのtutti(全奏)の効果を活かしきっている見事さが、きわめて類似しているように感じられる。

・半音をぶつける緊迫した響き、五音音階的な東洋的な響き、などなど、具体的にしらべたら、音楽の意味するところにもたくさんの共通点がありそう。

というような印象があったからです。さらに、

・いずれも、同世代の作曲家と作家が、母国語のテキストによって歌われる作品を創ったということ。
『青ひげ』はドイツ語上演も行われていますが、やはりハンガリー語の原語上演における、音楽と言葉の不可分な感覚は圧倒的だと思います。

・芥川もバルトークも若い時に書いたその作品が、唯一のオペラであるということ。

・答えの出ない深いテーマを、わずか1時間(足らず)の音楽と歌詞に凝縮し描ききっていること。

等々。
そして、この2作品が一番共通しているところは、男女の愛のありかたの、永遠に埋められない溝をテーマにしていることなのだと思います。
それは『青ひげ』では唯一最大のテーマであり、『オルフェ』においては被爆という縦糸に対する横糸なのだと感じます。

娘のいくつかの台詞に、特にそのことを感じます。
〔つづく〕

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20世紀のオペラとしての『ヒロシマのオルフェ』(その1) [作品]

『ヒロシマのオルフェ』の音楽は、明らかに、芥川作品のなかで極めて独自の個性を持っていると思います。
伊福部門下、あるいはストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチらロシア(ソヴィエト)の音楽の影響、という一般的な文脈だけでは、『オルフェ』は到底語れそうにありません。

『オルフェ』は、
1.まごうことなき芥川音楽であり
同時に、
2.極めて多彩な20世紀のオペラの音楽に対する、日本の若き作曲家・芥川によるオマージュでもある。

この2つの要素が統合され凝縮され、しかも大江健三郎の台本を得て、日本語の台詞とオーケストラが稀にみる緊密さで結びついている。ここに、『オルフェ』の比類ない魅力があるのだと思います。

言葉が内包する力学に対して、芥川也寸志は極めて鋭敏です。
さらに、オペラにつきものの「音楽と言葉」という相克への強い問題意識。
西洋音楽の粋たるオペラという舞台芸術の伝統に対する、周到な姿勢。
芥川が『オルフェ』を作曲するということは、まさに心身のすべてを投じた死闘であったに違いありません。

たとえば「光の子供たち」(第三場)で一瞬、ブリテンの歌劇『ピーター・グライムス』のワンシーンを思わせる、ひんやりと透き通って輝く響きが横切る、その鮮烈さといったら。
あるいは、最小限の音で描かれる、救いようのない暗い響きは、ベルクの歌劇『ヴォツェック』を連想させます。ドビュッシーの歌劇『ペレアスとメリザンド』を連想することもあります。

中でも、バルトークの『青ひげ公の城』については、以前から特に気になっています。
一度、『オルフェ』と『青ひげ』を並べてみましょう。

〔その2 に続く〕

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“青年”(バリトン)=なぜ“オルフェ”?〔その4〕 [登場人物]

〔その3 からつづく〕

そもそも、オペラの世界で「オルフェ」は特別な素材という印象があります。
まず、いまも内外で上演される数々のオペラの中で最も古い時代の作品として、モンテヴェルディの『オルフェオ』(1607)があります(モンテヴェルディより前に、ペーリという作曲家もオルフェにもとづくオペラを書いていたそうです)。

その後も、よく知られているだけでもグルック『オルフェオとエウリディーチェ』(1762)とオッフェンバック『天国と地獄』(1858、運動会につきもののあの曲が出てくるオペラ)があります。当然ながら三善清達氏の「オルフェ」についての論考のなかにも、さらに示唆的な記述が多々あり、「日本人によるオペラ上演第1号もグルックの『オルフォイス』だ。」というのもまさに的を射た指摘です。

オペラ史における「オルフェ」の400年にわたる系譜に、20世紀の大江&芥川『ヒロシマのオルフェ』を位置付け、もっと深く色々な角度から追求したら…はたしてなにが見えてくるのでしょうか。思索はとめどなく拡がります。

結局、「オルフェ」の由来は、一番最初に原作者によって与えられたタイトルにあった。そのことが分かっただけで十分なのかもしれません。
『ヒロシマのオルフェ』というタイトルと、実際には一度も「オルフェ」という単語が登場しない、舞台で歌われる歌詞。その間にある距離の意味合いを読み取ることも、この作品を演奏し、あるいは聴き継いでいく私たち1人1人に委ねられているのだと感じます。

〔この項ひとまず-完-〕

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“青年”(バリトン)=なぜ“オルフェ”?〔その3〕 [登場人物]

〔その2 からつづく〕

ギリシャ神話では、死の国に行ってしまうのは妻。オルペリス(オルフェ)自身は彼女を連れ戻しに行く立場であって、あくまで“生”に属する存在です。

『ヒロシマのオルフェ』で「青年」の恋人となる娘の正体は、死の国から派遣されてきた「死の娘」。彼女はたしかに“死”に属する存在です。

いっぽう「青年」は、第四場の終わりになって銃殺されますが、続く第五場で「死の娘」は、彼を死の国に連れてゆくという彼女の務めを翻す決心をします。暗黒世界の合唱団に「裏切り者!」となじられながらも、彼女は自身が属する暗黒世界の掟を破り「この人を現実世界に残して帰るの」と言い放ちます。

この彼女のはからいにより、第六場になると「青年」はまだ現実世界に生きています。そして彼は、“人間の勇気につながる”、“未来にかけて意味がある”行為として、手術台に横たわることを選ぶのです。
その手術が成功するのか(または手術を装って再度死の国の手に落ちるのか)、その結末は…台本も音楽も最後まで明示せずに、全曲の幕が降ります。

〔その4 につづく〕

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“青年”(バリトン)=なぜ“オルフェ”?〔その2〕 [登場人物]

そもそもなぜ「オルフェ」なのか?
その後いくつかのことを知りました。

1959(秋):
作曲家が台本の第一稿を手にしたときのタイトルが『青年のオルフェ』だった

1960:
ラジオ初演の際に『暗い鏡』というタイトルとなる。
「当時、大江さんの作品は〈青年〉をテーマにしたものが多かったのでNHKの提案の『暗い鏡』には、原作者としてかなり不満を表明されていたように思う。」
(芥川也寸志「〈暗い鏡〉と〈ヒロシマのオルフェ〉」より~1994上演時のプログラム所収)

1967:
ザルツブルク・オペラ賞応募に際し、「外国人にも分かるように」(“芥川也寸志 その芸術と行動”東京新聞出版局 より)という、NHKプロデューサー三善清達氏の提案で『ヒロシマのオルフェ』となる(1967)。

さて、少なくとも現在の台本の本文中には、「オルフェ」という単語は一度も登場しません。
また三善氏は、「芥川さんは後々、やっぱり『暗い鏡』がなつかしい気もする、と言われることがあった」(前掲書“その芸術と行動”より)と振り返っておられます。

〔以下、その3 につづく〕
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“青年”(バリトン)=なぜ“オルフェ”?〔その1〕 [登場人物]

このところずっと考えています。そもそも、なんで“オルフェ”なのだろう。

1960年初演時の作品名は『暗い鏡』で、1967年のザルツブルグ・オペラ・コンクール応募に際して改訂された際に『ヒロシマのオルフェ』に改められました。

オルフェといえば、もちろんギリシャ神話の“オルペウスとエウリュディケ”*の主人公。
(*「ギリシア神話」〔石井桃子 編・訳、初版1958~あかね書房 / 新版2000~のら書店〕の表記による)
彼のキーワードを思いつくままにあげれば:
・竪琴の名手
・最愛の妻が毒蛇に咬まれて姿を消す
・地下の死の国に妻を取り戻しに行く
・音楽の力で妻を地上に連れて帰る許しを得る
・「後ろを振り返ってはならない」という禁
・あと少しのところで禁を破る
・死の国に戻されてしまう妻
など。

このギリシャ神話の“オルペウス”と、われらが“オルフェ”こと“青年”(バリトン)について考えてみるのですが、これが意外にもすぐには結びつかない気がしてならないのです。

ギリシャ神話の物語の舞台は、

草原→
地下の死の国→
地上へ戻る暗い道→
日光が見え始めるあたり→
再び別離(妻は死の国へ)

というのが基本的な流れでしょうか。

一方、『ヒロシマのオルフェ』の場面設定は、スコアのとびらの記載によれば以下のようになります。

時 現代
所 日本のある街のかたすみ

第一場 ある街角 夜更け 街灯が一つだけ
ある暗る街角〔原文ママ〕
第二場 ホテルの暗い部屋
第三場 未来の世界
第四場 もとの部屋
第五場 同じ部屋-暗黒世界の片隅
第六場 同じ部屋 朝
第七場 病院の外科病棟


あるいは、登場人物という角度からみてみると(歌唱部分がなくても舞台にいると想定される場合は【 】カッコ付)、

第一場 娼婦たちの合唱団/通行人A・B・C・D(シュプレッヒ・ゲザング)/中年の娼婦あるいは巫女/青年/若い娘
第二場 青年/死の娘/暗黒世界の合唱団
第三場 光の子供らの合唱団/青年/【死の娘】
第四場 死の娘/青年/暗黒世界の合唱団/三人の兵士(黙役)/死の国の運転手
第五場 死の国の運転手/娘/暗黒世界の合唱団
第六場 中年の娼婦/青年
第七場 医師-死の国の運転手/青年/暗黒世界の合唱団/看護婦-死の娘

となっています。

ここまで整理して、いったんおやすみ。〔その2 につづく〕
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“あそんでいかない?”(第1場冒頭)

オーケストラ・ニッポニカ第17回演奏会「芥川也寸志 管弦楽作品連続演奏会 その3」(2010/3/14(日)、東京・ティアラこうとう)に向けて、昨年12月から歌劇『ヒロシマのオルフェ』を練習しています。

以前にCDで聴いたこともあったのですが、これほど凄い作品とは!
年末年始の休みのあいだも、気がつくと頭の中で『オルフェ』が鳴っていて、つい色々考えてしまうので、思いついたことをここにメモすることにしました。

「あそんでいかない?」
これはもちろん、このオペラで最初に歌われることば。歌うのは“娼婦たちの合唱団”(コントラルトのコーラス)。
この、最初のことばが、既にしていかに選びに選び抜かれているか、ということに先日思いあたりました。

このオペラが原爆と真正面から向き合う作品であることは、あまりに明らかです。そして、このオペラは、個人にとっての被爆という現実の核心を表現することで、結果として極めて広大なスケールで、普遍的な人間のさまざまな側面を切実に、しかも豊かに、愛着を持って表現し得ていると感じられます。

「あそんでいかない?」
コンサートホールという場は、原爆というテーマに向き合うには、一見そぐわない…ということは、大なり小なりいまの私たち誰もが感じることではないでしょうか。
この最初のことばは、その私たち聴き手の戸惑い、気の重さをいわば逆手にとって、一気に作品の世界へと引きこんでいきます。
台本の圧倒的な力。そして、最初のことばが発せられる前に演奏される序曲、第1場冒頭の音楽の、驚くべき凝縮力。

オーケストラ・ニッポニカ第17回演奏会
<芥川也寸志管弦楽作品連続演奏会・その3>
2010年3月14日(日) 16:00開演予定/東京・ティアラこうとう
指揮:本名徹次
曲目~
芥川也寸志: 音楽と舞踊による映像絵巻「月」 (1981)[舞台初演]―演奏会形式による
芥川也寸志: 歌劇「ヒロシマのオルフェ」*(1967)台本/大江健三郎―演奏会形式による

*青年:黒田博(バリトン) / 若い娘、のちに看護婦:腰越満美(ソプラノ) / 中年の娼婦、実は巫女:加賀ひとみ(メゾソプラノ) / 死の国の運転手、のちに医師:吉田伸昭(テノール) / 合唱:Chor June、すみだ少年少女合唱団他

副指揮:四野見和敏
管弦楽:オーケストラ・ニッポニカ

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